2014年

2月

22日

それぞれの営み

近くの浜へ、海を見に行きました。

浜の一角は、内陸からの川が流れ込んでいます。その川のところに、白いサギと薄墨色のサギが来ていました。

白いサギのほうは、行ったり来たり、せわしなく動いていましたが、薄墨色のサギは、じいっと川の中にたたずんでいました。たまに、ゆっくりと歩く。その歩みがきれいで、みとれてしまいました。からし色の足先は3つ又に分かれていて、後ろ脚を前に一歩出すとき、この足先は一瞬たらりと垂れて束のようになる。そして地面に着くときにはまたパッと開いてきれいな三つ又になります。ゆっくりと歩く動作をするあいだ、どの瞬間をとっても全身のバランスは完璧です。歩みを止めるときは、ほんとうに、「ふと足を止めた」という感じで、「止まる」という行為は「歩くのやめる」という以上の何ものでもなかった。「止まる」ために何も余計なことをしていませんでした。

しばらくのあいだ遠くから見ていましたが、川の上にかかる橋を通って、向こうの浜へ行こうと思い、そのついでに、橋の途中で自転車を止めて真下の川とそこにいる薄墨色のサギを、さっきよりも間近に見ました。この川は水の透明度が思ったより高く、底は浅めでした。そして驚いたことに、魚の大群が、いました。大人の手のひらくらいの大きさの魚が、数百尾、かたまりになって、川の流れに抗う方向に頭を向けて、ゆらゆらと身をゆらしていました。前進する気配はなくて、同じ場所にとどまっている感じ。たまに群れの中の何尾かがひらりと体の角度を変えると銀色のおなかがチラチラ光ました。そしてたまに、じっとしている群れのあいだをひゅんひゅんと縫うように泳ぐ個体もいました。そこに混じって、鯉よりももっと大きな魚も一尾いた。

魚の大群から、薄墨色のサギが立っている場所までの距離は2メートルほど。

サギは相当に長い時間同じ場所に立っていて、一度だけ水の中にくちばしをいれて何かを捕え、ごくりとのみこみましたが、魚の大群のほうへ近づいて行く気配はありませんでした。

向こうの浜へ行って、美しい夕焼けを、心のごちそうのようにいただいてから、帰りにまた橋のところへくると、さきほどのサギと魚の大群は、まだそこにいました。が、位置が少しだけ変わっていた。サギが魚の大群のいた場所に近づいていて、魚の大群は、そのサギからまた2メートル程度向こうへ移っていました。

この微妙な距離感…。サギはしばらくして、ゆっくりゆっくりと、あのきれいな歩みで私が顔を出しているところのほぼ真下へとやってきました。途中、3度、顔をこちらに仰向けて、私を見ました。存在が認識されたのがわかりました。それだけのことだけど、うれしかった。サギはそのまま、歩調を変えることなく、橋の下をくぐって見えなくなりました。

家へ帰ってから、野鳥の本で調べると、やはり、アオサギでした。白い首に黒い模様があざやかで、おなかと翼の薄墨色が美しかった。翼の端は黒く縁取られていて、かっこいいのです。

アオサギとはコミュニケートは試みませんでした。今日は、「ただみんなとともに、すべてとともにそこにいる」という意識に自分を開く練習をひたすらしていました。世界の体感がまあるくなったことが、たのしかったです。

市街地がすぐそこで、車がびゅんびゅん行き交う国道の真下で、魚の大群やアオサギや小鳥たちが自分たちの営みをしていること。なんだかミラクルに感じる自分がいます。こうやって、ともにいるんだな…。

2014年

2月

14日

身近な生きものと知り合っていくこと

数日前だったか、おとなりの家のツツジの枝にシジュウカラがちょこんととまって、茶色っぽい紙袋(?)みたいなものをくわえているのを見かけました。小鳥の体にほどよい大きさの紙袋でした(小鳥が、小鳥用のお店へ買物に行ってなにか買って帰って来たとしたら持っているであろう大きさ)。

 

それを足で支え持って、袋ごと、くちばしでかじって食べていました。シジュウカラはいつもはひまわりの種を足で持って、コンコンコンと枝に打ちつけてから、中身を食べています。それ以外のものを食べているのを見たのは初めてでした。

 

なんだろう、あの紙袋みたいなものは、と思ってから少しして、カマキリの卵かな?と思い当たりました。

 

そしてさっき、もらったきり読んでいなかった『にほんのいきもの暦』(日本生態協会著)をふいっと読みたくなって、ページをめくると、ちょうど今の季節のページ(立春から雨水までの期間のページ)に、オオカマキリの卵の写真が載っていて、その説明に「目ざとい鳥が……食べてしまうことがあります」と書いてありました。やっぱりあれはカマキリの卵だったんだなあ、とわかりました。

 

この本は、太陰太陽暦(二十四節気・七十二候)に沿って身近な日本のいきものが紹介されていて、季節のめぐりを通して身近な生きものと知り合っていく助けになる1冊です。最初のページは「立春」から始まります。なので、ちょうど「立春」と「雨水」のあいだの時期にあたる今は、この本とのおつきあいを始める「旬」かもしれないです(今年の「雨水」はグレゴリオ暦の2月19日)。

 

ゆっくり少しずつ、身近な生きものと知り合っていくのは楽しいし、直観的コミュニケーションの練習にもなります。予備知識を持たずに、まず直接生きものたちと接してから、そのなかで得た情報をあとで図鑑や本で確認するのがおすすめです。(今回のシジュウカラのカマキリの卵は、見た目で推測できることだったので、直観的コミュニケーションの練習だったわけではありませんが)。

 

特定の「種」について全般的な情報を得るには、そこにいる生身の個体にアクセスするのではない方法もあります(異種間コミュニケーターのAnna Breytenbachさんが教えてくださった方法です)。これについては「練習のヒント」ページに近々アップしようと思いますが、この場合も、そこで得た情報を、あとで図鑑や本で確認するとよいです。

 

直観的コミュニケーションで得た情報は、ウラを取ることが大切です。ウラが取れると、次第に自分の中の批評家や懐疑主義者の声を鎮めていくことになるからです。

 

自分は知りようもなかった、もしくは思ってもみなかった、ということが事実通りだったとき、「実体験」という土の中から「信頼」という芽が出ます。直観的コミュニケーションはとかくふわふわした、地に足のつかない領域という印象になりがちなので、地道なウラ取りはほんとうに大切にしたいものです。

2014年

2月

13日

「すべてとともにある」

『The Animal Communicator』(南アフリカ、2012年、52分、英語)というドキュメンタリー映画を見ました。野生のバブーンの群れのなかにゆったりと歩み入り、すっと群れにとけ込んでしまったAnna Breytenbachさんの姿が心に残りました。岩に横たわったAnnaさんを数匹のバブーンがとりまいて、彼女の髪を両手でかきわけたり、顔に鼻先を近づけたり、おなかに両手をのせてよりかかったりしていました。とても幸せそうになすがままにされていたAnnaさんの様子は、以前テレビで見た畑正憲さんと重なりました。あれは確かモンゴルだったと思うのだけれど、畑さんはおおかみ舎の中に丸腰で入っていって、おおかみの美しさをたたえまくりながら、おおかみに押し倒されたような状態になって顔をべろべろなめられるがままになっていたのでした。畑さんもあのとき、呆けたように幸せそうな顔をしていたっけ。

Annaさんはボスのバブーンにうながされて、一緒に地面に穴を掘ってもいました。バブーンの手と、Annaさんの手が、一緒に地面の小さな穴の中に差し込まれるのを見て、じーんとしました。

すばらしかったけど、すばらしすぎて、映画を見た夜、わたしはまた自信をなくしました。まさにわたしの夢のビジョンを現実に生きている人がいるという、福音的な映像だったのに、それを見たわたしは、これはよほどのことがないと至れない境地だ、自分にはとうてい無理だ、と思ったみたいでした。そして今自分がしているささやかな試みが、あまりにささやかすぎて、なんの意味もない、と恥ずかしくなってしまいました。Annaさんのすばらしいありように圧倒されて、何事も最初は小さな一歩から少しずつなのだ、ということをすっかり忘れてしまった・・・。「あれは一部の才能のある人だけができること」という既成概念に、またしても、ぼはっととらわれてしまったのでした。

一晩寝て起きて、木々と空を眺めて座っていたとき、思い出したことがありました。このあいだの日曜にあった東京都知事選挙は、深く尊敬し信頼している候補者の方が出ていて、その人を一生懸命応援していたために、ほんとうにさまざまなことがあって、みぞおちの中がぐちゃぐちゃにかきまぜられるような日々をくぐったのですが、選挙の結果を見て、改めて自分の中から出てきた想いは「もっと話を聞きたい人がたくさんいる」というものでした。ほかの候補者の人に票を投じた人、投票に行かなかった人など、それぞれの人にとって、この世界がどんなふうな場所なのか、知りたい、と思いました。

それとちょうど同じように、もっと話を聞きたい存在たちがいる、と改めて思い出したのでした。鳥たち、草たち、雪、風、木々・・・。すべてに声が、ある。

 

このはっきりとした望みを思い出せたら、「できる/できない」ということをめぐる問いや不安から、離れることができました。


そして、そうした声を聞くには、頭の言語脳というか、社会脳というか、そういうものをシャットダウンする必要があることに思い至りました。

楠の木「青馬」と偶然話せるようになったときの自分を思い出しました。青馬に会うと、いつも、まず全身に独特の”流れ”のようなものが通ったのでした。全身が整っていくような流れ。その体感の中から、対話をしていたのでした。その体感のほうが、いわゆる”思考”よりも勝っていた。そしてわたしの側に、受け取る意図が、あったこと・・・。

そう、まわりの皆にスピリットがあり声がある。それを思い出したら、すべてに囲まれて、大いなる安心感がやってきました。

足下には床があるけれど、その下の地面の中には木々や草たちの根っこがネットワークのように張り巡らされ、虫たち、動物たちがそここを行き交っている。頭上には、天井の向こうに空があって、そこにはとんびやからすや小鳥や虫たちが飛び、雲が流れている。おしりを支えてくれてるこの椅子も、ある一本の木からやってきたもの。手にしている鉛筆にも、ノートの紙にも木々の精が宿っている。すべてに囲まれて、すべてと一緒にここにいる事実を思い出したとき、不安は消えていました。

ほかの存在は、いつでも「ともにいる」ということに開いているように思います。おそらくいつもそのような、開いた意識にある。ただわたしが閉じているだけだから、わたしも「ともにいる」ということに意識を開けば、いつでもこの大いなる平安にアクセスできるんだな・・・。

みんなと「ともにいる」とき、体もすっかり楽になっていきました。つかのまだったけれど、魔法のようでした。

Annaさん、畑さんも、「ともにいる」という意識に開くことを練習してきた人たちなのかもしれない、と思いました。

わたしもとりあえず、そこを練習していってみたらどうだろか? そんなふうに思いはじめることができて、自信をなくしてしょげていたところから意外と早くリカバーできたのでした。助けてくれた、木々やみんなのおかげです・・・。

 

Annaさんのすばらしいドキュメント、『The Animal Communicator』のトレーラーは、ここから見られます。

2014年

1月

26日

先日この界隈のボス猫(ロ)さんと、うちによくくるようになった(ヒ)ちゃんのことを書きましたが、(ヒ)ちゃんとはその後さらに距離が縮まって、今日は(ヒ)ちゃんは午後ずうっとうちの縁側サンルームで寝そべって過ごしました。

この1年近く、いつも緊張していて、1メートル以内に近づくと身構えるような(ヒ)ちゃんだったのが、今日はサンルームの中に入ってきて、そこで座って書き物をするわたしの足元50センチ以内のところに座り始め、わたしが去った後には、わたしの席のざぶとんの上でいつのまにか寝ていた……。

寝てくれたのは、正直、うれしかったです。そこまでこの場でくつろげるくらい安心してくれたのだな、と思って。もう知りあって1年以上になるのに、初めてのことでした。

うれしいな、と思いつつ、部屋の中で仕事をしていたのですが、ふと気づいてサンルームを見やると、(ヒ)ちゃんの耳が後ろ向けになっていました。

あれ?どうしたかな?と思って窓際まで行ってみると、サンルームから庭へ出入りするために開けた掃き出し窓のところに、(ロ)さんが来ていて、(ヒ)ちゃんを見つめていました。

最初はふたりとも黙ってましたが、そのうち(ヒ)ちゃんが(小さい猫なので)高い声でなーと唸り出し、(ロ)さんもいつもよりかは抑えめでしたが、唸り返し始めました。

このままいくと、サンルームの中で乱闘か?という様相……。でもわたしはこないだのことを思い出して、窓ガラス越しに部屋の中から、(ロ)さんに対して、みぞおちから声をかけてみました。わたしの姿は(ロ)さんからは見えていなくて、わたしも(ロ)さんのおでこが上から見えるだけです。

いくつかのことを伝えましたが、特に、(ロ)さんが唸るのをやめ、体の向きを変え始めて、サンルームの入口から中に入ろうとするかわりに向こうの庭へと去って行き始めてくれたときに伝えていたのは、「この界隈をいつも守ってくれていてほんとにありがとう、わたしもこの小さい猫の(ヒ)ちゃんも、おかげで安心してここにいられます」というものでした。

唸り始めてしまった(ロ)さんには、何を伝えても聞いてもらえないかもとも思ったけど、やっぱり聞いてくれた、と思った。うれしかったです。今日はこないだよりもうんと短い時間の交流でした。(ロ)さんは、ほんとうにいろんなことがよくわかっている猫なのです。そしてほんとに頼もしい猫です。この界隈をほんとうに守ってくれているんだと思います。

(ヒ)ちゃんはその後もそのまま、同じ場所で寝そべって過ごして、夕方の雨が降り出した頃、去っていきました。

雨が降ってから、わりとぱっとやんだので、わたしは慌てて今日5時までやっている図書館へと自転車を走らせたのですが、家を出て角をまがったら、目の前の空に太い虹が一直線に空へ立ち上っていました。きれいでした…。

2014年

1月

23日

今そこにいる、「生」の存在と出会っていく

うちの界隈には、お隣に住む大家さんやその向こうに住む集合住宅の皆さんに見守られて暮らしている「地域猫」がいます。(ト)さんというキジトラ猫の一族で、3世代います。そのうちの一番若い世代の、(ヒ)ちゃんという小さい猫が、冬になって毎日うちにやってくるようになりました。

今日は、そうやって(ヒ)ちゃんが来ていたあいだ、この界隈の「ボス猫」として知られている、体の大きな猫(ロ)さんが、路地の向こうからやってきてしまい、(ヒ)ちゃんと出くわしてしまいました。

この2人は出くわすといつも激しく「うーっ」「なーっ」と唸りあって、最終的には逃げる(ヒ)ちゃんを(ロ)さんがダッシュで追いかけて、わたしからは見えないはるか向こうのどこかで「ふぎゃー!」とばたばたやりあうのが聞こえる、というふうでした。

もしくは(ヒ)ちゃんがそーっと逃げるまで、(ロ)さんはそこに居座り続け、(ヒ)ちゃんがいなくなってからゆったりとこの場を去っていく、ということもありました。

今日も、出くわしてしまって、まずは2人ともフリーズしました。わたしは2人と三角形を描いた一角にいて、(ロ)さんの顔はよく見えました。

そこで今日は、(ロ)さんに、直観的コミュニケーションの手法で話しかけてみました。みぞおちを全開に開いて、友好の気持ちと尊敬の気持ちを送り、今そこにいる(ロ)さんと出会いました。わたしの記憶の中にある「いつも(ロ)さんはこういう猫なんだ」というイメージをかぶせるのでなく、生の、今ここにいる(ロ)さんです。じっと、丸く、そこに座っている(ロ)さん。

そしたら、いじわるに見えることがよくあった(ロ)さんの顔が、ほんとうにかわいく見えました。美しいな、と思った。

それで、それを伝えました。そして(ロ)さんがこの界隈を守っていてくれることに感謝していること、そして(ヒ)ちゃんのことは今日はそっとしておいてほしいこと、できればこれからも仲良くしてもらいたいことなどを、時間をかけてゆっくり伝えました。この界隈の本物のリーダーとして、小さい猫と争うのでなく、小さい猫をやさしく導くことがすてきだと思うと伝えました。

(ロ)さんは、わたしが心の中でこうしたメッセージを出すあいだ、何度も目を細めて、ときには笑っているかのように見えました。かわいかったし、聞いてもらえている、という感じがしました。

どのくらいそうやっていたでしょうか……。ついに、(ロ)さんはものすごくひそやかにゆっくりと上半身を少し起こして、超スローモーションで後ろに振り返る動きをし始め、ついに向こうむきになると、元来た道を静かに、ゆーっくりゆーっくり歩いて戻っていったのです。

(ロ)さんと(ヒ)ちゃんが出くわしたときに、こうやって(ロ)さんがバックダウンしてくれたのは、初めてのことでした。ほんとにお願いをきいてくれたんだ、と思いました。みぞおちから大きな「声なき声」でなんども「ありがとう!ありがとう!」と伝えました。

しかしすごーく集中したので、後でどっと疲れました……。

* * *

実感したのは、今ここにいる(ロ)さんと出会うということの大事さです。(ロ)さんは、野ねこではなく、家を持っている猫です。首輪をしていて、名前も書いてある猫さんです。人間と暮らしているから、日本語もよくわかります。大家さん一家はもうずっと、野ねこのままの(ト)さん一族を可愛がってきて、そんな大家さんにとっては(ロ)さんは「天敵」。よく(ロ)さんに向かって「あっちへ行け!」と言っていました。

わたしが最初に(ロ)さんを知ったときも、大家さんから「ひどいやつなんです、ここらのボス猫で、喧嘩強くて」と聞かされていました。

それで大家さんと同じように、(ト)一族と親しみ始めたわたしも、心のどこかで(ロ)さんを危険視していました。(ロ)さんは、わたしがほかの猫と一緒にいないときに会うと、とってもラブリーで、「おはよう」と言ったら「にゃあ」と返事を返してくれたり、足元にすりすりしてきてくれるような人なつこい猫で、相方はそんな(ロ)さんを「したたかだ」と言っていたこともありました。

そんなこんなで、どこかしら心根の悪さを(ロ)さん像にくっつけてしまっていたのです。

でもそういう「像」を、今ここにいる(ロ)さんにかぶせてしまうから、(ロ)さんも反発するんですねきっと……。

今日(ロ)さんと話したときは、わたしの頭の中にある「いつもの(ロ)さん像」のみならず、一般にいわれれるような「動物は縄張り争いするのが当たり前だ」というような前提さえも、留保して、ただ今そこにいる(ロ)さんの存在とじっと交流することを試みました。

(ロ)さんは、そうしたら、すごく耳を開いてくれたように感じられました。人間だって、自分がどういう人間かについて、あるいは自分の行動の理由について、他人に勝手に決め付けられるのはいやですよね。それは、ほかの生きものも同じなんですね、きっと。

今日のことは、☆型コインにして、「貯信箱」に入れようと思います。大切なこと教えてくれた(ロ)さん、どうもありがとう。