それぞれの営み

近くの浜へ、海を見に行きました。

浜の一角は、内陸からの川が流れ込んでいます。その川のところに、白いサギと薄墨色のサギが来ていました。

白いサギのほうは、行ったり来たり、せわしなく動いていましたが、薄墨色のサギは、じいっと川の中にたたずんでいました。たまに、ゆっくりと歩く。その歩みがきれいで、みとれてしまいました。からし色の足先は3つ又に分かれていて、後ろ脚を前に一歩出すとき、この足先は一瞬たらりと垂れて束のようになる。そして地面に着くときにはまたパッと開いてきれいな三つ又になります。ゆっくりと歩く動作をするあいだ、どの瞬間をとっても全身のバランスは完璧です。歩みを止めるときは、ほんとうに、「ふと足を止めた」という感じで、「止まる」という行為は「歩くのやめる」という以上の何ものでもなかった。「止まる」ために何も余計なことをしていませんでした。

しばらくのあいだ遠くから見ていましたが、川の上にかかる橋を通って、向こうの浜へ行こうと思い、そのついでに、橋の途中で自転車を止めて真下の川とそこにいる薄墨色のサギを、さっきよりも間近に見ました。この川は水の透明度が思ったより高く、底は浅めでした。そして驚いたことに、魚の大群が、いました。大人の手のひらくらいの大きさの魚が、数百尾、かたまりになって、川の流れに抗う方向に頭を向けて、ゆらゆらと身をゆらしていました。前進する気配はなくて、同じ場所にとどまっている感じ。たまに群れの中の何尾かがひらりと体の角度を変えると銀色のおなかがチラチラ光ました。そしてたまに、じっとしている群れのあいだをひゅんひゅんと縫うように泳ぐ個体もいました。そこに混じって、鯉よりももっと大きな魚も一尾いた。

魚の大群から、薄墨色のサギが立っている場所までの距離は2メートルほど。

サギは相当に長い時間同じ場所に立っていて、一度だけ水の中にくちばしをいれて何かを捕え、ごくりとのみこみましたが、魚の大群のほうへ近づいて行く気配はありませんでした。

向こうの浜へ行って、美しい夕焼けを、心のごちそうのようにいただいてから、帰りにまた橋のところへくると、さきほどのサギと魚の大群は、まだそこにいました。が、位置が少しだけ変わっていた。サギが魚の大群のいた場所に近づいていて、魚の大群は、そのサギからまた2メートル程度向こうへ移っていました。

この微妙な距離感…。サギはしばらくして、ゆっくりゆっくりと、あのきれいな歩みで私が顔を出しているところのほぼ真下へとやってきました。途中、3度、顔をこちらに仰向けて、私を見ました。存在が認識されたのがわかりました。それだけのことだけど、うれしかった。サギはそのまま、歩調を変えることなく、橋の下をくぐって見えなくなりました。

家へ帰ってから、野鳥の本で調べると、やはり、アオサギでした。白い首に黒い模様があざやかで、おなかと翼の薄墨色が美しかった。翼の端は黒く縁取られていて、かっこいいのです。

アオサギとはコミュニケートは試みませんでした。今日は、「ただみんなとともに、すべてとともにそこにいる」という意識に自分を開く練習をひたすらしていました。世界の体感がまあるくなったことが、たのしかったです。

市街地がすぐそこで、車がびゅんびゅん行き交う国道の真下で、魚の大群やアオサギや小鳥たちが自分たちの営みをしていること。なんだかミラクルに感じる自分がいます。こうやって、ともにいるんだな…。