続・ズワイガニ、ムースの赤ちゃん

(7月に手記を遡って記録)

アオダイショウと会ってから、カナヘビたちが元気かどうかが時々気がかり。

 

で、先日はとても気がかりだったときに、ノイバラの茂みを除いたら、チビカナヘビが顔を出してくれた。

 

今朝も、あれからカナヘビファミリーは無事だろうか、とぼんやり考えていたら、室外機のよこからこちらに向かって、コンクリのパテイオの上をチビカナヘビが歩いてきた。そっちのほうにも出向くんですね、意外なところから現れたのでちょっと驚きつつ、今日も元気でよかった、と思った。

 

しかしアオダイショウと会って以降は、カナヘビのチビにしか会えていない。お父さん、お母さんは元気なのかな。

 

IICシンポ(直観的異種間コミュニケーションがテーマの国際学会)中の日々に、あのチビカナヘビが顔を出してくれたときは、ほっと安心したけど、そのあと、ノイバラの茂みの頭上でギョエー、キョエー、というような鳥の鳴き声がして、カナヘビが慌てて身をすくめ、目につかないところにもぐっていったのを見ていて、カナヘビたちにとってここでの暮らしは私みたいにのんきな感じでなく、常にあたりを警戒しつつ日々を生きていることを感じた。

 

その日はキョエーと鳴く鳥(オナガだった)が特に大勢集って、ノイバラの茂みのそばやキウイ棚、椰子の葉の上に大勢でとまって一斉に騒ぎ立てるようなこともしていた。ヘビの存在のせいかな?とも思った。オナガたちも一生懸命に見えた。

 

この日は逆の北の「ねこの額庭」の琵琶の木に、ヒヨドリが来たり。いつもそんなにそばに来ない鳥たちがやけに入れ替わり立ち代わりやってきてた。

 

で、鳥といえば、ここしばらく、外に出かけると、鳥の聲が自分の注意を簡単に引くようになった気が。相方と一緒に歩いていても、相方の言葉を聞くのと同じかんじで鳥たちのいろんな声が入ってくる。それでつい、何?と思ってそちらに意識を向ける。

 

道を歩いている時のシジュウカラ。昨日は江ノ電の駅で電車を待っている時に、やたらと「ううう、ううう」と唸っているハトの声がして、どうしても気になって、声のするほうへ行ってみたら、駅の最北端の屋根の隅に鳩の巣があって、そこにいる鳩がうなってた。

あいさつして、ハートへ降りて、話しかけてみたら、うううというのは鳴き病んで、私の頭上近くに寄ってきて見下ろしてた。たぶん、いきなり人に話しかけられて、びっくりしたんだろうな。

 

大丈夫?なにかしんどいのかな?と聞いたのだけど、ほんのりと大丈夫な気がしたし、電車が来てしまったのでそのまま別れた(後でググったら、この唸りは求愛行動らしいと知った)。

 

この日は、電車で有楽町まで行く間、ズワイガニと話してみようとしていた。先日のbaby mooseとズワイガニが出てきてくれたときのメッセージ「人目につかないところで育つものがある」というのは、baby mooseとズワイガニと両方からだったのかも、と思ったので。

 

ズワイガニにtune inすると、光のない場所、というのが来た。ああ、なるほど、ズワイガニも人目の付かない場所にいる。。

 

後でネットでしらべたら、ズワイガニは去年数十億が消えたせいで、今年からアラスカではズワイガニが史上初めて禁漁になったというニュースがあった。人口減だったのか、みんなでどこかへ逃げたのか、後者だったらいい、人目につかないところで暮らせていたらいい、と思った。

 

baby mooseについてもネットで調べたら、今の季節はbaby mooseがときどきひとりでいるところを目撃されやすい時期なんだそうだった。で、それを「母とはぐれた」と思って保護して家で飼おうとするケースがしばしばあるらしく、それはやってはいけない、と注意喚起がされていた。母とはぐれているわけでない、母は少ししたら戻ってくるからそっとしておくべし、とのこと。baby mooseも人目に付かない方が無事に育つ、というのはありそうだった。

 

「人目につかないところで育つものがある」というのは、彼ら自身の状況であると同時に、私にとってのアドバイスのようにも感じていて。むやみやたらに今回のIICシンポのこと、自分の今の世界との関わりについて、しゃべったり書いたりしないほうがいい、というふうに受け取った。大きな変化が起きたからこそ。まだこの”引っ越し先”での日々が浅いからこそ。

 

この日は帰り道には、夜道で猫でない動物が道を横切った。誰かな?と思ったけど、ものかげに去ったので、逃げ去ったのかとおもったら、先へ進むと壁際にまだいて、こちらに数歩歩いて顔を見せてくれた。白い線が鼻筋に通っていて、ハクビシンかな、とわかった。そのあとハクビシンはまたむこうへ向いて去って行ったけど、ごはんちゃんと食べられているのかな、と思った。トイレをする場所はあるのかな、とか。うちの西の庭を使ってもいいよ、そのかわり屋根裏とかにあがって屋根裏を汚すとかはしないでほしいのだけど、と思った。

 

帰宅して、家の中に蚊がいて、何か所か刺されたけど、特になにもしなかった。「もう刺さないでね」とは思った。寝て、朝起きたら、蚊がすーっと向こうへ飛び去った。寝室に一緒にいたみたい。でも刺されていない。今日も夏日なので、ちょっと衣替えをしないと着るものがなくて、タンクトップのまま衣替えをしていたら、蚊が内側から窓を触ってるのが見えた。外に出る方法を探していたみたいに見えたので、窓を開けてあげたら、外に出て行った。ジョー・コパージャックさんだったか、ジョーセフさんだったか、どちらから聞いたんだったか思い出せないけど、ファーストネーションの人達もスウェットロッジをするときは生きものは蚊でもなんでも殺さない、と言ってたのを思い出した。

 

今朝は、改めて、深い信頼の中にいられることを感じたし、ありがたいなと思った。All my relationsの中にいて、ものごとをしている限り、ものごとはしかるべき展開をする、という信頼。無理やりにやみくもに信頼するのとは、またちょっと違っていて、「そりゃあそうだろう」という納得感とともにある信頼。自分はがんばるのでも無理をするのでもないんだな、そこでは。

 

”You must always know where you come from(自分の出自を常にわかっていないといけない)"とファーストネーションの人達が言うのがどうしてなんだろう、と数日、ハテナを浮かべたまま過ごしていたけど、相方とtrans-racialのイギリス人男性について話していて、なんとなく輪郭がわかってきた。根無し草になって、なんでもない者になることで、何でもなりたいものになれる、というふうになることは、幸せなことではないな、と感じた。お金がいくらでもあって、好きなものをいくらでも買える人は、求め続けるというループの中にいて、安らぐことがなくて、苦しいことだろうな、と感じた。ゲノム編集で食欲が満たされることがないようにされてしまったトラフグのように? 

 

今わたしはお金がなくて、好きなように物を買ったり、きまぐれに行きたい場所に行ったりできないけど、そのおかげで今ここ、この家に深く着地していて、ここにいるみんなと深く知り合っている充実感がある。ただここにいて、無条件な幸せを感じたりまでしている。満たされていて、もっともっと、というような乾きはない。もっと、という思いはあるけど、それは乾きというよりは、もっとみんなのことを知りたいなという、望みみたいなもの。

 

しがらみというのが日本語にあるけど、人間だけを視野に入れるからめんどうくさくなるんだろうという気がする。もっと広やかに多くのbeingsとのしがらみの中にいると、安心感と信頼感の中でくつろげる。

 

そんなふうに今は感じている。そして自分のありようが、みんなにとってよいものであれば、何も心配しなくても、いい、ということ。